もし原文の作者たちがこの超訳を見たらどう思うだろう。我々の力作をこういとも単純な言い回しで表さないでくれ、と言われるかも。特に恋の歌、失恋の歌なんかで、傷ついた感情をああも簡単に訳されたら私でも腹が立つ。傷ついてこらえきれない感情を歌に詠んだのに、あんたはこの程度にしか感じ取ってくれないのか、と。他にも関西弁で訳されている歌もあるし、なんか作者のお遊びみたいで。それだったら出版なんかせずに家で一人でやってればいいじゃない?百人一首は難しい。だから誰でも理解できるように翻訳する、ということ自体は悪くないと思う。でもそれならなおのこと原文を尊重してほしい。原文のすばらしさを保ったままで、自分なりの色を加えて訳していくこともできたはず だ。
私はぜんぜんおもしろくありませんでした。おもしろくないだけでなく、こんな味気ないストレ-トすぎる日本語で、恋の詩(もどき?)を読まされたくないと思いました。源氏物語は、いろいろな作家が挑んでいますが、それぞれが、「与謝野晶子源氏物語」や「瀬戸内寂聴源氏物語」になっていて、楽しいです。同じように、この百人一首が作者の作品になりきっていればおもしろいのかもしれませんが、その点、今ひとつです。百人一首は、学校で意味の解説がついた本といっしょに読まされるので、こういった本は、そういう解説書を超えていて、それ独自の芸術性が高くないとつまらないです。何しろ、もとの作品の芸術性がかなり高いわけですから。
百人一首に興味を持つためには最適です。なぜかって、おもしろいからです。まんが古典シリーズが人気があるのと同じと考えるとよいでしょう。こんなのは百人一首じゃあない、なんておっしゃるよりも「まずは入門でどんな者か、どんなに楽しい内容か、人というのは古今同じなんだと理解して、いよいよホンモノへ」と考えましょう。それにしてもまんがシリーズにしても、超現代化シリーズにしても30年前はなかったような気がします。ああ、いい時代になったんだ。 |
このページの情報は 2006年12月25日16時43分 時点のものです。 |